2011年5月6日金曜日

ビン・ラディン

こんにちは。

徳川幕府は、300年続いた間に事実を曲げて、幕府にとって都合の良いように、歴史を改ざん・捏造したと言われています。
という事は、今残る歴史は逆のことが多く、事実ではないことがあるという憶測を生みますが・・・

今回のビン・ラディン殺害について、将来、誰かが今回の事実を捻じ曲げるかもしれませんね・・・
米政府筋は、ビン・ラディンの殺害命令が下された背景について「裁判にかければ数百万ドル(数億円)かかる」と財政上の問題を指摘した上で、「主張が世界に知れ渡るような裁判を望まない」と述べた。

事実が無いから、作られる。
主張がないから、憶測を生む。

あぁ、嫌だぁ!!

世界の事象、全ては、誰かに支配されてるんですかねぇ。

2011年4月28日木曜日

SONYがハッカーにやられる!!!

お久しぶりです。この度は、SONYが大変な事になっていますね。
しかし、欧米、アジア含めて7700万人の個人情報流出とは(トホホ…)
国際社会ということを改めて、思い知らされました……

それに因んで、今回は、家康が開国する際の一例を挙げてみたいと思います。

家康が関ヶ原後に、ウィリアム・アダムスというイギリス人を側に置いて、日本人の妻をもうけさせることまでしたのですが・・・

キリシタン(キリスト教の信者)問題等、複雑な事情が絡み合い、側近家老からは反対の声、ポルトガル系のキリシタンからも反対の声と、ウィリアム・アダムスを側に置く事を頑なに反対されました。

しかし、外国事情が知りたい、開国したい家康は、半ば無視する形でウィリアム・アダムスを置き、三浦安仁(みうらあんじん)という日本名を与えました。

なぜ、周りが反対するかは、さて置き、胸襟を開いた対応には、さすが!!大御所!!!
と言いたいですが、この決断には、キリシタン問題を見越しての決断だったと思います。

ポルトガル等のキリスト教は国力から考えて、当時のイギリスの国力に劣っており、そちらに偏るよりも、イギリスと、三浦安仁を通じて国交を結んだ方が善いと考えました。

その通り。あの時、ポルトガル系にやられてたら、いまだに日本は植民地かも・・・

当時は人殺しが当たり前だったので、今より恐ろしいぃぃぃ.・:’

これからは当時以上の国際社会になりますので、家康以上の度胸のある人間、それを支える参謀格の人間が必要です。

敵を倒したければ、敵を知れということで、ハッカーを自分のとこに、雇えば良いんですよ!!
アメリカなんかは、ハッキングの試験まであるみたいで。
そこまでやっても手を焼くんだから、やり過ぎくらいが丁度良いってことでしょ!!

目には目を!歯には歯を!!

勉強熱心な家康。

幼い頃の人質暮らし、度重なる敗戦、我慢、忍耐。
これらの事を、幾度となく経験してきた家康だから、生涯勉強、研鑽を重ね、江戸時代の幕開けを迎えることが出来たと思います。

今回は、将軍職を息子秀忠に譲る頃の、家康が、新たな知恵、後学のためにと、会って、教えを乞うた人物を例とし、家康の勉強熱心振りを学ぼうと思います。

関ヶ原を勝利、征夷大将軍となり国を治める力を持った家康でしたが、その後も、僧や兵法者、若手の学者等に会い教えを乞う姿は変わりませんでした。

この時、周りの意見は、さすが親方様という者と、これ以上まだ天下を治める気なのか、という二つに分かれました。

この時、家康は開国の準備を進めており、人材登用も、関ヶ原前とは打って変わり、戦のない世を作るためのものに変わっていきました。

一例ですが、徳川埋蔵金で知られる大久保長安などです。
長安のときも、というか長安のときは、やはり周囲の反対がありました。

というのも、それまで名前も無かった?取られた?長安なんて信用できるのか、という事でした。

長安の場合、家老格の大久保家からの推薦であったため、すんなりいったんですが、普通なら怖くて手を出さない所を、家康自身泰平の世に照準を合わせ、即決で起用したところが勉強熱心でなくて、どうして出来ようか!!!と強く言いたいのです。

しかも家康は、物の数分程度の対話で、長安の人物を測り起用するところまでいきました。
家康の場合、責任は自分が取るという心構えがあったからかもしれません。

憶測ですが。

今日の日本でも様々な、問題が渦巻いております。
色々と難しい問題ばかりかもしれませんが………

私は私の立場で、責任感を持ち、日々進んで参る決意です。

では、また!

2011年3月14日月曜日

何ができるか。

今回の東北・関東大地震につき、大変衝撃を受けました。
被害者の方々には、心からのお悔やみを申し上げます。

最前線との情報共有、的確で素早い対応、避難民の引き受け等々、何か僕にも出来ることはないでしょうか?

僕は九州に住んでいますので、簡単に救援に行く事は出来ませんが、避難民の方の受け入れなら出来ます。

仮設住宅を作るにも時間がかかるでしょうし、今の東北では、思うようにならないと思われます。
そこで、僕は、日韓ワールドカップの時(大分・中津がカメルーンを受け入れ)のように、各県が、東北の被害にあわれた方を、受け入れ、日本全体で、今回の災害に立ち向かわなければならないと思います。

考え方としては、戦国から江戸時代に各大名が石高に応じて、人員(戦や城作りへの)を幕府に動員したように、100万都市であれば、1万人受け入れる(例えですが)等し、出来るだけ、偏らないように工夫する。

また、今の、物資が不足した東北に何万人という人が入るのでは、それだけで更なる負担がかかるのではないかと...

多くの問題もあるでしょう。

しかし、何か出来ることがあればしたい。この災害を見ているだけでなく、東北の皆さんと共に関わっていきたい。

小さな事から、やっていきます。
頑張ろう!東北!!

2011年2月28日月曜日

家康の教育。

征夷大将軍を、2代将軍秀忠に譲った(駿府に移ることを決めた頃の)家康の教育。

①鷹狩に子供達を連れ出す。まだ7歳にも満たない子供たちの楽しみといえば、鷹狩が終わった後の、鍋であった。

②鍋には、猪の肉や、兎の肉、野鳥等の肉が放りこまれ、駆け回って狩りをした子供達は、空腹であり、美味しそうな湯気の香りにたまらなく食欲をそそられる。

③しかし、家康は、食べてはいけないと言う。

これを聞いた、心の判らぬ者たちは、一様に、「とうとう家康に、死慾が出た。」と言ったりした。

④自分は腰に付けた干乾を食べ、鍋に入った御馳走は部下に食べさせる。

というのも、大将たる者が、一兵卒と同じように、慾を出すことは愚かであり、また、部下に対して、自分の子を思う親心のようなものがなくてはいけない!ということである。

⑤この教育方法は、可愛い子には旅させろ!とか、我が子を谷底に突き落とす!といった躾であり、心得である。

私も甘甘で育てられておりますが、一児の父となりましたので、親子共々、家康に習い、精進して参ります。

今回は一発目ということで、サラッと書きましたが、次回も、サラッと書きます。

次回はいつになることやら・・・